東京ちんも日記

生。社会。すべてが、てんこ。

社会の外についての空想

  彼は日に14時間働き、休日であるはずの土曜日と日曜日の少なくともどちらかの曜日にも会社に出て事務仕事をやっつけていたが、これは30代半ばのいわゆる働き盛りの男としてはよくあることだった。もちろん月曜日から働き始めて次の月曜日まで休みが全くないこともあった。
  彼らはこの生産性に富んだ社会に欠かせない自己犠牲の精神に溢れた労働力だったが、一方で、彼らの中から労働を中心とした生活から残念ながらも抜け落ちていく者が現れるのはよくあることであった。少なからぬ男たちが、肉体を、あるいは精神を病み、病院に入ったり、会社を辞したりするのであった。(ところで、自己犠牲の精神に溢れたというのは、ほとんどの男たちが彼らの労働に見あった対価を時間外労働手当として受け取ることがなかったからである)
  そんな訳で、彼も自分自身がいわゆる「落伍者」となる日がいつ来るのだろうかと半分は恐れ、半分は期待に胸を踊らせながら考えていた。恐れというのはつまり、経済的生産性を最重要の価値とみなす社会からの逸脱を予期しての感情であった。要するにこの社会の除け者となり、身の置き場を喪失すると考えていたのである。そして期待というのはこの社会の外の社会を空想することから生じていた。彼はそれを意識的に行っていたわけではなく、社会からの逸脱を恐れるあまり、ほとんど無意識に、自分の居場所がこの社会の外に出てもあるにはあるだろう、そしてそこでは経済的生産性以外のもの(それは経済的生産性以外のものであればもはや何ものでも良かった)が重要と見なされているのだと信じようとしていたのである。
  でもそんな社会の外の社会なるものが空想の産物であることは彼自身も気づいていた。もしもそんなものが存在すると確信できていれば、彼の恐れ、すなわちこの社会からの逸脱を妨げていたものは跡形もなくなってしまい、彼は経済的合理主義からの自由に酔いしれながら会社を後にしていただろう。しかしもちろん確信などは持ちようがなかった。それどころか、理性の上では彼はそんなものはどこにも存在しないはずだと考えていた…。それでも、彼は一抹の希望を捨てることができなかったのである。