東京ちんも日記

生。社会。すべてが、てんこ。

素敵なディト

「私のこと、都合のいい女だと思ってる?」
彼女は言った。ぼくらは有楽町のグレードの高いカフェでブランチをしていた。クリームソースのパスタとグリーンカレー風味のパスタだった。絶妙なアルデンテだった。そして上品ながら繊細な味わいをしていた。
「そういうわけじゃない」ぼくは言った。
「ただ、君に会いたくなったんだよ」
ぼくはサングリアを口にした。彼女の方はアルコールを注文しておらず、飲めば飲むほどぼくの不利になることは十分にわかってはいたが、それでも、飲まずにはいられなかった。仕事が忙しい日がずっと続いていて、平日にお酒を飲む余裕なんてなかったのだ。休日に昼間からシックなお店でお酒をたしなむことが、いつの間にかぼくの習慣になっていた。
「君といると落ち着くし、海の底に沈んで押し黙っていたぼくの心が震えるような気がするんだ。そういうのって、あるでしょ」
彼女は黙っていた。ちょうどパスタが終わりに近づいていて、ボゥイがオニオングラタンスゥプを運んできた。有楽町のシックな店にふさわしい、感じの良い若者だった。パックス・アメリカーナ時代のあの国の広告のような笑顔で微笑んで、サーファーのように浅黒くやけていて、筋肉がよくひきしまっていた。
「小さいころ、祖母によく連れて行かれた洋食屋があった。そのお店のオニオングラタンスゥプがひどく好きだった。君にもそんな記憶はない?幼いころの、特別な味。ぼくはそれを思い出して、舌先で、温かい思い出をむさぼりたくなったんだ。素敵な女性を眺めながら。」
沈黙はまだ続いていた。スゥプは小さなカップに入っていて、ふたつのスプゥンがついてきたが、彼女は口をつけなかったから、ぼくは一人でそれを食べた。時間をかけて煮込まれたオニオンの素朴な味がした。
ぼくがスゥプを飲んでいる間に、彼女はお手洗いにたった。ぼくは急いでスゥプを飲み干して会計を済ませた。それから彼女の鞄をもって、お手洗いの入り口の前で彼女が用を済ますのを待っていた。
「なにもこんなところで」
トイレから出てきた彼女は怪訝そうな顔をしていたが、多分、交際相手でもないぼくにこんなに気を使ってもらえることに、戸惑ったのだと思う。たしかに目は笑ってはいなかった。しかし、口元にわずかに笑みが浮かんだのを、ぼくは見逃さなかった。
「この近くに、三菱一号館美術館という素敵な美術館があるんだ。そこで素敵な展示をやっているよ…少し、涼んでいかない?」
彼女は特に返答をしなかったが、ぼくがよく整備されたクリーンな道を丸の内の方に歩いていくと、後ろをついてきた。ぼくはそれを容易に知ることができた。歩道を歩きながら、彼女の姿が目に浮かんだ。緑色のワンピースを着ていた。よそ行きのように綺麗に装ってくれてきていた。
ぼくらは国際フォーラムの脇を通り、三菱東京UFJ銀行の本店と道路を挟んで向かいに立っている、小さなレンガ作りの美術館に入った。
「この建物は日本で初めてのオフィスビルを復元したものなんだ。隣のでかい建物は丸の内パークビルディングといって、三菱商事と新日鐡住金という日本でも有数の大企業が入っている。」
彼女は黙っていた。そこでぼくは話を続けた。
「ご存知のように、このあたり一帯は三菱村と呼ばれている。明治維新後に官有地となって陸軍の兵舎や練兵場として使われていたのだけれど、三菱の二代目に払い下げられて以来、今でも三菱グループの本社が集中している。最近、丸の内のCMがよく流れるだろう?三菱地所が、がんばっているよね。」
美術館は日本画だか浮世絵だかの展示がやっていた。冷房が強かったので、美術館が貸し出していたストールを彼女にとってやったら、彼女はそれをずっと羽織っていた。展示の中に一群の春画があって、そのコーナーだけは18歳未満の客は入れないようになっていた。江戸時代の季節の行事にかこつけて、様々なシチュエーションでセックスをしている男女の痴態がユーモラスに描かれていた。たとえば、こいのぼりの中に入って男女が交合していたりした。ぼくはこれを好機ととらえて彼女に話をしかけようとしたが、彼女は先に出てしまった。
歯車がかみ合っていない気がしてきた。美術館を出たところですぐ彼女に追いついた。彼女は、ぼくを待ってくれていたのだ。赤いレンガの建物の前で、緑色のワンピースがよくはえていた。
「…お待たせ。ねぇ、その素敵なワンピースが、レンガの壁とよく似合っているよ。。アー写とってあげようか。」
アー写ってなに」
「そんなことも知らないのか。アー写っていうのはね、ほら、ある種のバンドなんかがよく街中とかで並んで写真をとっているでしょ。ああいうのだよ。アーティスト写真。」
「え。別に…」
彼女はつれなかった。
「ね、アートアクアリウムというのが、ある。ここから東京駅をはさんで反対の方なんだけど。金魚が、たくさん、きれいな水槽の中で泳いでいるらしいんだ。」
「へぇ」
ちょうどタクシーが走ってきたので、ぼくはそれをとめて彼女と一緒に乗り込んだ。もちろん、彼女を先に乗せることは忘れなかった。なにか事故があったとき、運転席の後ろの席が、一番安全なのだ。
「今日は面白いデートだね。"三菱村"の次にぼくたちが向かうのは、三井財閥の牙城の日本橋だよ。財閥のルーツの三越本店に、中央三井信託銀行やら、三井タワーやら、狭い区画にぎっちりと集まっている。明治維新後に時代の中心が丸の内や銀座、それに六本木や渋谷や新宿にうつってしまったが、かつて江戸の商業の中心地だった三井日本橋が、ここのところ頑張っているんだ。君は三菱財閥三井財閥、どちらが好き?」
「あまり興味がないわ」
「そう」
車は会場のCOREDO日本橋の脇につけてもらった。5分くらいしかかからなかったけど、短い距離でタクシーに乗るのは、気持ちのいいものだ。しかし、すぐ会場に入れるものかと思っていたが、30分も並ばなければならなかった。とはいえぼくは迷わずに並んだ。アートアクアリウムはデートスポットの極地だと聞いている。ぜひとも彼女に楽しんでもらいたい。気がついたら彼女は鞄から文庫本を出して読みだしていた。仕方がないのでぼくもスマホ三井財閥の歴史を調べてみることにした。でも読むのが面倒になったのであきらめてぼぅっと列にならんでいた。お酒を飲んだあとで美術館に行ってきたので少し疲れてきた。
会場は大変な混雑だった。金魚の水槽を見るためだけに、人だかりを掻き分けて前に出なければならないほどだった。しかし奥に進んでいくと非常に巨大な水槽もあって、遠くからでもたくさんの金魚が泳いでいるのがよく眺められた。なかなか珍しい光景だった。
「ねぇここでアー写とったらいい感じになるよ、きっと。とってあげるよ」
「いい、気が乗らないの」
「………」
「…ねぇ、なんだか安っぽいと思わない?なにもこんな原色の明かりで水槽を照らさなくてもいいじゃない。金魚というのは、江戸時代だとか、すごく昔から、長い時間をかけて品種改良してきて、ただ泳いでいる姿を見ているだけでも楽しい、美しい魚になったのよ。それを、こんなにけばけばしく飾り立てたりして。それに、金魚もかわいそうよ。こんなにたくさんの人に見つめられたりしたら、とても疲れてしまうんじゃない?まるで探偵に私生活を監視されているみたいに。もう見ていられないような気分よ」

ぼくはなんだかがっくりきてしまった。とんだことになってしまった。彼女は勤めて無表情を装ってはいたが、いらだちは隠しきれてをいなかった。
「ごめんね…。素敵なディトにしてあげられると思ったのだけれど…」
「あなたとデートなんかするつもりは、なかったわ。さようなら」

「え?」

彼女はいったいなんだったというのか。デートをするつもりがなかったら、なんで誘いにのってきたのか。ぼくには分からなかった。彼女は人ごみをかきわけて出口へと歩いていった。その歩みには一切の迷いがないようだった。ぼくは彼女のワンピースのすそが揺れるのを、ただずっと見つめていた。