労働に価値を見出せる人間がどのくらいいるのだろうか
1910年ごろにイギリスで出版されたとある本を読んでいたら、次のようなことが書いてあった。
「特別な人間でない限り、自分の仕事に情熱を燃やして"いない"。よくても"嫌いではない"というくらいで、仕事に全力投球するといったことは"まずない"」
こういったことが、声高に主張されるのではなく、"ごく当然の事実"として、簡潔に書かれていた。
ぼくはそれを見つけて、ひどく安心した。
なぜなら、ぼくも"その本に書かれた普通の人間"であり、そのために、現代の日本に生きる30代の男性として、とても苦しい思いをしているからだった。
いわゆる、"意識の高い言葉"が、(すくなくともぼくが目にする範囲で)、まるで傘のように社会を覆っている。
本屋に行ったら必ずといっていいほどビジネス書のコーナーが目立つ一角にあり、就職サイトや転職サイトではどの企業の求人を見ても、 高邁な志を持った人間を求めている。
まるでぼくのような人間は、働く資格がない人間のように思われる。
ぼくは、働くことに、価値を見出せない人間だ。
金を稼ぐためだけに、仕方なく、働いているに、すぎない。
だいたい、人間の全活動のうち、"労働"となりうる行動、つまり、金を稼ぐことのできる行動が、どのくらい、あるだろうか。それは、人間の全活動のうち、ほんの一部にしか、過ぎないではないか。
ぼくは、本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、歴史を知ったり、ものを考えたり、街を眺めたりするのが、好きだ。そういったことに、生きる価値を見出している。
仕事のような無味乾燥なものに、価値を感じられるわけがない。
現代の日本においても、ぼくのような"普通の人間"が多いことを、願っている。