無職、礼賛
無職に、なった。
他の何者でもなく、無職、である。
なんらの、説明も、いらない。
純然たる、無職。
うそ、おおげさ、まぎらわしさ、いつわり、虚飾、欺瞞、そういったいっさいのものに汚されない、美しい、概念。
無職。
なんという、真実の、響きで、あろう。
なぜならば、いやしくも、人がなんらかの、職業なるものに、従事している場合、そこには、なんらかの職業を名乗るものと、それを受け入れる者との間に、醜い、人間同士の駆け引きが、生じる。
なんらかの職業を名乗るものは、その職業の実際のところを、問われるであろう。たとえば、営業職であると一言でいっても、どのような業界の、どのような会社に勤めているのか、なにを売っているのか、誰に売っているのか、どのような営業スタイルなのか。入社して何年たつのか。なぜその会社に入ったのか。営業自体だけでなく、マネジメントなども行っているのか。年収はいくらか。残業はどのくらい発生しているのか。手当はどれくらいか。会社の規模はどれくらいか。会社は上場しているのか。将来性は。リストラの可能性はないのか。通勤時間はどのくらいか。
そのような、微に入り細を穿つ項目について説明がなければ、とうてい、納得はされず、信じて、もらえないだろう。三菱重工で海外営業をしています、などと、言うことは、実に、簡単である。でも、彼が本当に働いているのか?そんなことを、どうやって、信じればいいというのか。だいたい、人間など、嘘つきで、見栄っ張りの、虚飾にまみれた、薄汚い、豚にも劣る、存在なのである。この、高度資本主義社会においては、なおさらである。それっぽい、いい感じの職業についていると嘘をつくことは、日常茶飯事である。だから、なんらかの職業につくということは、無数の疑念、疑問を、表出させるのである。
対して、無職。
無職。
誰が、なんらかの職業についているのに、自分が無職であるなどと、自分自身を貶めるような、嘘をつくものだろうか。
いや、そんなことが、あるはずが、ない。
無職。
無職で、ある、こと。
それは、この高度資本主義社会におけて、極めて稀な、真実の、誰もを安心させ、心をほかほかさせる、美しい、告白なのである。
ルソーにもまさる、美しい、魂の、躍動。
ところで。
ぼくは、無職で、ある。
自分を、無職で、あると、言える、そのことの、安堵感たるや。
まるで、心臓まで凍れる冬、吹雪の中で、かまくらに、ちゃんちゃんこを着て、こたつに入っているような、心も、からだも、ほかほかで、安心しているような、あるいは、ひとことで言うならば、母の胎内で羊水につつまれ、母の血のあたたさみを感じているような、神秘的の、満足感に、みたされているのだ。
それだけでは、ない。
無職に、心配の種があるのかどうか、どうぞ、想像してほしい。
そう、無職には、心配の種が、ない。
なぜなら、仕事を、していないから。
ぼくが、仕事をしていたころは、仕事が終わったあとも、休みの日も、仕事のことが、心配で、心配で、たまらず、断言するが、一瞬たりとも、こころ、やすまるときが、なかった。
たいして、無職。
仕事という煉獄から解き放たれた、天使。
この天上人に、もはや、仕事の心配は、無用。
もう、なにも、考える、ことが、ない。
まったくの、真実の、「自由」。
このせせこましい高度資本主義社会において、真実の「自由」を享受し、ほんものの「優雅」を現実に生きることができるのは、無職、それのみである。
ぼくは、今日、やることがなかったので、銀座に、やってきた。
銀座といえば、世界の中心の日本、その中心の東京の、さらに中心に冠たる、まさしく、間違いなく、世界でもっともセレブリティにあふれる場所である。
そのような場所を、平日の昼間から堂々と闊歩する、その歓びは、容易に想像できることであろう。
これぞまさしく、「優雅」。
日本、そして世界中から集まるセレブな通行人と並んで、平日の昼間から銀座のプールヴァールを堂々と闊歩するぼくの姿は、まさに「優雅」という、イデア、そのもの。その背中には、隠すことのできない「ダンディズム」すら、あふれだしていたことだろう。
ぼくという無職の存在が、世界の首都たる銀座の絢爛に、さらに華を添えたことは、言うまでもなくない。
「真実」。
「自由」。
「優雅」。そして「ダンディズム」。
この高度資本主義社会において失われてしまった人類究極の崇高なるイデア、そのもの。
それが、「無職」であったのだ。
全人類が目指す究極存在となるための、王道。
それが、「無職になること」。
ぼくは、高度資本主義社会に特有の様々な醜い雑念から解き放たれた曇りなき眼で、夜の帳がおりた美しい銀座を眺めながら、そう確信した。