東京ちんも日記

生。社会。すべてが、てんこ。

分かってはいるけれど、しんどい

分かってはいるけれど、しんどい。休日出勤も含めて、平日、毎日のように、少なくとも14時間程度働くということ、そして、ただ言われた仕事をこなすだけではなく、自分で判断し、企画を出し、社内で根回しし、資料を作成し、提案し、売上ノルマが達成できなければ、詰められるという生活は、体力的にも、精神的にも、かなり、しんどい。年をとってきて、体が衰えていくばかりだから、なおさらである。
仕事ばかりの生活には、潤いがないので、辛い。求められるのは、企画作成と、営業数字の達成のみで、ぼくという存在は、ただ、その2点のみで評価される。そうなると、やるべきことは、働くことばかりなので、生活のバランスが、崩れる。感情が、予算達成にともなう喜びか、未達に対する恐れか、未達確定の際の恐怖と申し訳なさくらいしか、なくなってしまう。まるで、動物のようなのだ。本を読んだり、音楽を聞いたり、人間について考えたりすることがなくなり、多少なりとも複雑な感情というものが、まったく生まれることなく、日々が過ぎていく。
やはり、辛い。学生のころの自分には、こんな生活は耐えられなかったが、ぼくの中の人間的なものをすり減らし続けたことで、なんとか、耐えている。ぼくの中のもっとも人間的な部分を犠牲にすることで、ぼくは、サラリーマン生活に、順応してきた。
失った心は、なかなか戻らない。でも、繊細すぎては生きてはいけないし、これは、仕方のないことだと思う。振り返ってみると、自分がこんな生活に耐えられるようになったことは、大きな変化である。動物としては、とても、強くなったと思う。
しかし、昔より強くなったとはいえ、それでもやはり、辛いことに変わりはなく、ほとんど、なんとかしのいでいるというところが、現実だ。
だからぼくは、これほどまでに人間的な生活を犠牲にしながら、未だに、CDを一枚買うのにも気をつかうほどの、飲み会が入ってしまったら出費に頭を抱えるほどの、旅行を計画する時などは、清水の舞台から飛び降りるほどの決意が必要なほどの、それくらいの、まったく、余裕が生まれない収入しか得ることができていないことに、虚しく、辛いものを、感じてしまう。
ぼくにとっては、ほとんどぼくのすべてだったと言える感性や、生活や、感情を、すべて投げ打ってまで、ようやく初めて手に入れたものが、人並みの生活、少しの贅沢をするにもびくびくものの家計、こういったものであることに、失望と、辛さを、感じざるを得ない。
分かっては、いる。そもそも、人並みの生活を送りたかったのであれば、きっちりと大学を卒業して、就職をして、余計な本は読まず、テレビのニュースを見て、日経新聞などに目を通したりなどして、この国が定めた中流生活を送るためのレールから一度も足を踏み外すことなく、生きていくべきであったということは、分かってはいる。
それに、日本経済が下り坂で、昔ほど楽にはお金を稼げず、お金を稼ぐには、過去と同じようにビジネスを進めるだけでは、入ってくるお金が減るばかりで、国内の新しい市場を見つけ出したり、これまでにないサービスをつくったり、海外へ売りこむためにタフな交渉をしたりすることが必要になってきているであろうことは、分かっては、いるつもりだ。
それでも、ぼくの中の生活、それはいわゆる独身貴族の生活のイメージやなのだけれど、そんな生活に、まったく収入が追いつかないこと、それも、人生のほとんどを犠牲にしているのに、平日は働くだけで1日が終わり、土日も資料作成に出勤したりして、人間的な精神をすっかり摩耗させて、動物のような存在に成り下がったというのに、体力的にも、精神的にも、いつ、足を踏み外して、奈落の底に落ちるかわからないほどなのに、それに見合うだけのお金が入ってこないようなのが、どうにも、辛い。
しかし、分かっては、いる。社会が定めたレールから足を踏み外してしまったので、人並み以上の生活を送っている社会人や会社が、誰もぼくのことなど、見向きもしないので、転職も困難で、ぼくが今、このような状況にいるしかないことは、仕方がないことなのだと、よく、分かっている。