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東京ちんこ倶楽部 〜哀しみのLast dance〜

生。社会。すべてが、ちんこ。

死と過労

体が、もたない。ここ2ヶ月くらい、ずっと働きづめだった。休日もなければ、もちろん定時で帰れる日もなく、毎日、5時間ほどのサービス残業をして、夜の食事は、自炊する体力が残っていないし、まともな店も開いていないので、毎晩、すき家で済ませていた。
大叔父が亡くなった。たしか80くらいだと思う。中卒で、田舎から集団就職で名古屋へ出て、IHIだかどこかのエンジニアとして叩き上げた傑物だった。よく田舎にも帰ってきていて、実家の宴会に呼ばれると、お前はいくつになっても結婚しないなといった意味のことを、名古屋弁で言われて、からかわれたりした。それが彼なりの愛情の示し方だった。笑う時は、鯨のように目を細めた。しかし二年ほど前に癌で胃を切ってからは驚くほどにやせ細って、酒もほとんど飲まなくなっていた。そうなったときに、ぼくは初めて彼を数少ない血のつながった人生の先輩なのだと強く感じた。
ぼくは大叔父の死に立ち会うことはできなかった。ぼくの母親が彼の死をぼくに知らせたのは、彼が亡くなった翌朝のことだった。ぼくは大急ぎで荷物をまとめて田舎へ帰った。飛行機から電車を乗り継ぎ、実家に帰ったのは間もなく通夜が始まる午後7時の直前だった。通夜の会場に入ると、奥行きがある部屋の奥に、鮮やかに一面に花を飾られた祭壇があり、その手前に線香台と、棺があった。ここ数年でもう何度も見た光景だった。ぼくは蝋人形のようになってしまったかつての陽気な酒飲みの死に顔を見た。思っていた通り、涙をこらえることができなかった。涙は眼球のまわりにとどまらずに、ほおを伝って一滴一滴流れていった。まるで絵に描いたみたいな泣き方だな、とぼくは思った。でもそれからは、両目がひどくうるむことはあっても、涙を流すことはしなかった。通夜のあとで食事をした。会場の脇、棺から歩いて五歩のところに、控え室の扉があった。入ると、畳敷きの部屋に、十五人は座れそうなテーブルが座布団が用意されていて、よく知られた地元の料亭から運ばれた仕出し料理が並べられていた。叔父や叔母が中心に先に腰を下ろして、おもむろに宴が始まった。しかし故人の話題はすでに語り尽くされていた様子があって、気がつけばぼくらは、銘々が旅行した土地で見つけたうまいものや、地元の飲み屋をあげあっていた。卓を囲んだ親族がひと通りそれを語り終わると、年輩の親戚からおもむろに帰り支度をした。
ぼくは大叔父の孫にあたるぼくの弟や、同年輩の親戚の男たちと線香番として葬儀場に一晩残った。でも一ヶ月前からの多忙がたたって、夜通し起きておくことはできなかった。深夜二時に一度寝たが、すぐに弟に叩き起こされ、五時頃までは棺の前の椅子に座っていた。外を走る車が増え、街が動きだす様子がなんとはなしに感じられる頃、告別式の準備のためにぼくの親世代の親戚たちが帰ってきたので、彼らと交代して、少しだけ眠ることができた。控え室には親戚連が集まってきたので、押入れに入って寝た。眠ったとも眠れたとも言えない、緩慢なまどろみがずっと続いた。
でもまったく疲れは取れなかった。昼過ぎに告別式が始まったが、ぼくは悲しみと同時に、気を抜いたら心臓が止まりそうな疲労感と戦い続けなければならなかった。葬儀場の椅子にずっと座っていると心臓がおかしくなりそうだった。体を動かさない分、血液を循環させるために、心臓に負担がかかっていた。
ここ数年、何人もの親戚が続けざまに亡くなり、葬儀の手順についてだけは常識的な範囲の知識をようやく得たが、葬儀の悲しみも、辛さも、寂しさも、肉体的な負担のきつさも、なにもかも、少しも、楽にはならなかった。
告別式のあと、いつものように親戚全員でマイクロバスに乗って火葬場へ行った。もたもたと遺族たちが葬儀場を出る中を、男たちが、六七人で棺を抱えて霊柩車に運んだ。
葬儀場は違っても、火葬場はいつも同じ場所だったが、それはどことなく喜劇的な印象を与えた。しかし火葬場の一棟だけの建物は来るたびに憂鬱になりそうな灰の臭いがした。もっとも1日に何度も人間を焼いているのだから当たり前のことだった。不運な建物だった。たぶん経済成長期の最初の段階あたりに建てられ、数十年の年月が過ぎても一度も建て替えられることなく、人々の記憶の地平の外れあたりでひっそりと、かつての人間の塊を焼き続けるための建物だった。
焼き場はその日は"渋滞している"らしい"と告別式のあとで誰かが言っていたが、予想に反して、かつてのやり手エンジニアのやせ衰えた亡骸は、案内人の手で、とてもスムーズに焼却炉まで運ばれた。棺は乗せられたときと同じように、同じような顔ぶれの男たちによって車から降ろされ、担架のようなものに乗せられた。そうして棺が炉の前に来たとき、"案内人"(ぼくは彼らのような職業をなんというのか知らない)が、最後に、棺の顔の部分にある蓋を開けて、故人の兄弟達が、最後の別れを告げた。それから、棺が炉の中に押し入れられると、案内人が、電気照明のようなスイッチをいれた。それは焼却炉の焼却炉としての役割を開始させるためのものだった。前にここで誰かが焼かれたときは、案内人は、遺族のしかるべき人間に、肉親との最後の別れを自らの手で始めてよいものかどうか聞いたものだったが、今回は、なにも声をかけなかった。一連の流れが、コーヒーを淹れるように、とどまることなく進んでいった。
ぼくたち遺族は大叔父の肉体が焼かれている間、いつものように待合室をあてがわれたが、ぼくは疲労と眠気があまりにもひどかったため、トイレの個室で便座に座り、2時間ばかりを過ごした。規定の時間になってから焼き場へ行き、残された者で順番に箸のようなもので白い骨を拾って壺へいれた。骨は生前の故人の個性によらず誰もがおなじような色をしているようだった。光沢がまったく失われたためか、コピー用紙のように純粋な色をしていた。
すべてを済ませて実家に帰り、最近実家が飼いだした猫と一緒に寝た。まだ2歳にも満たない、若い雌猫だった。家族は猫に名前をつけていなかったのでぼくもそれにならって猫と呼んだ。茶トラで、毛がつやつやとしていて、少し痩せてはいたが、愛らしい猫だった。ぼくは彼女を胸に抱いて、ソファに横になった。リビングには喪服を引っ張りだした後のハンガーや、余分に出した黒いネクタイが雑然と置いてあった。それらは一連の出来事の終わりを示していた。また終わったんだ、とぼくは思った。ぼくが人生の中盤にさしかかったころから、従兄弟や、祖母や、大叔父や、そしてあまり親しくはしていなかったたくさんの親戚が、次々と亡くなっていた。そしてぼくはその多くの場合、仕事を任せて田舎へ帰ってきて、喪服に着替えて、最後の儀式を済ませてきた。また終わったんだ、とぼくは思った。猫は去勢をしていないらしく、ぼくの胸で妙なうねり声をあげていた。ぼくは彼女の腰のあたりをさすってやった。すると曲がった尻尾を両足の間に入れて、息遣いを激しくした。時代が終わりつつある、とぼくは思った。
そういった出来事が、この間起こったが、ぼくはすぐに仕事に戻った。たまたま通夜が土曜日だったため、仕事を休まずに済んだが、その分、休みは潰れ、帰省やら線香番や気苦労やらで疲れ切った体だけが残った。