東京ちんこ日記

生。社会。すべてが、ちんこ。

うつ病記念日

人生に、新しい、記念日が、増えた。

最初のそれは、高校時代に、初めて、ファッション雑誌を買った日。

次のそれは、初めて、東京での暮らしを始めた日。

それらに新しく加わったのは、初めて、うつ病と診断された日。

しかし、ぼくは、自分が本当にうつ病なものか、よく、わかってはいない。たしかに、うつ病らしくはあるが、そこまででは、ないのではないか、という気持ちにも、1日の半分くらいは、なっている。

会社に、行けなくなった。朝起きても、会社に、行けない。ぎりぎりと苦しんで、欠勤を選択するというよりは、自然と、無理だな、と、思った。眠れない日が、続いていて、心臓は、時を問わず、動悸していた。それで、会社を、休んだ。

先生にもらった薬を飲むと、夜、寝れるようになった。しかし、食事のたびに飲む薬のせいか、なんだか、日中に眠気がでてくるようになった。体は、少し、おだやかになった。

やることが、なかった。それで、今まで捨てようと思って迷っていた本や鞄やCDを、捨てた。途中で、部屋にいるのが嫌になり、外にでた。でも、行きたい場所は思いつかなかった。駅の改札の前で、15分ほど考えて、ひとまず、池袋への電車に乗った。

池袋の西口を出ると、立教大学へ向かう大通りがある。夕暮れが近かった。ぼくはアルバート・アイラーのアルバムを聞きながら、その通りを、西へ歩いていった。

聖地☆阿佐ヶ谷ロフトA潜入記

・阿佐ヶ谷のロフトAに行った。最近の韓国や香港のアンダーグラウンドなライブハウスの活動を収めたドキュメントリー映画を観るためであった。

・その日は2本の映画の上映の後、トークショーが開催されるという企画であった。控えめに言って拘束時間が長く、サブカル根性が試されそうであった。ぼくは2本目の映画の上映から入場した。それでなくても阿佐ヶ谷ロフトAに入るのは初めてのことだったので、緊張を感じていた。

・阿佐ヶ谷という街は、その地名を聞いただけで、サブカル好きは微笑し、左の人々はわけ知り風にうなづき、右の人々と公安は顔をしかめるような、ある種の聖地である。

※上記のいずれにも当てはまらない人々にとっては、阿佐ヶ谷なんて東京にあるのか大阪にあるのか沖縄にあるのかもわからないくらいだろう。
※高円寺や中野といった場所はあまりにも有名になってしまったから、サブカルキッズとレフトの人々が日本全国から流れ着いているとに違いない。そちらに比べると阿佐ヶ谷は純粋な中央線らしさというか杉並らしさのようなものを保っているように思われる。

・ロフトAは駅徒歩2分という異様な立地の良さだった。でも地下一階にあって、その入り口はアーケードからは見ることができない、その代わりに階段を埋め尽くしているポスターがとてもアングラな「圧」を発していた。

※たとえば、てんこが生えているセクシー女優の大島薫の全裸ポスターがあった。言葉の本来の意味での全裸であった。下の毛は剃っていて、おてんこの本体だけに必要最低限のモザイクがかかってる。その隣に本人のサインと「おちんぽみるく!」という言葉が書かれていた。

・店内に入り、受付でチケット代金を渡して席についた。フロアの前方に簡単なスクリーンとトークショーの席が用意されていて、居酒屋のようにテーブルが並んでいた。それらは小さな丸テーブルで、大人2人が座ればそれでいっぱいだった。床はチェッカーフラッグ柄で、派手なネオンがところどころに輝いていた。ぼくは50代くらいの年配の男性と相席になった。客の中に20代らしい人なんてほとんどいなかった。思っていた以上に年齢層は高かった。

・ぼくは相席のおじさんと最初から最後まで一言も声を交わさなかった。挨拶さえもしなかった。しかしそれが不思議と心地よかった。

・同じような感覚はそこに集まっていた人々の集団に関しても感じられた。まったくなんの干渉もされないし、品定めもされないという安心感が感じられた。「あなたも好きなんでしょ?うん、私も。いいよね…」という雰囲気があった。ここでは、互いの趣味や好みについて論争したりするような子供じみた行いはまさに川向こうの出来事であった。お客さん達はみな明らかに百戦錬磨のサブカルエリートで、すでに「橋」をわたってしまっていたのだった。

※参考音源:浅川マキ  赤い橋


赤い橋



・映画は、アンダーグラウンドなライブハウスと、政府との泥臭いゲリラ戦といった内容であった。

 

・すたれた工業地域の廃工場のビルの一角をもともとバンドの練習用スタジオとして借りていたが、やがて人が集まりライブハウスのように使われることになった。しかし、工場のビルは「製品の製造」のためにしか使用することができない、という法律があり、警察がやってくる。そこでスタッフ達は「俺たちは音楽という文化を製造しているんだ!」といった理論で警察と議論していた。

・結局、そこは何度か営業停止になり、別の廃ビルに移って営業再開となった。こういったことが4度ほどあった。

・ライブハウスに集まる人々はみな昼の仕事を持ちながら、ミュージシャン、機材係、PA、チケットのもぎり、バーカウンターのスタッフ、映像の撮影、などを掛け持ちし、さらに、ハウスのステージの制作(ペンキで鉄骨やベニヤを黒く塗るところから始める)、破れたカーテンの縫製、膨大なゴミ捨て、犬の世話、行政への対応、などなどを、すべて自分たちで行っていた。まさに「DIYとはこういうものだ」というのがよくわかった(ペンキの廃材のようなものを袋につめて捨てにいく映像があったが、心底臭そうなのが印象的だった)。

(続く、多分)

ぼくの好きな歌:君に捧げるほろ苦いブルース:荒木一郎

よくあることだけど荒木一郎を聞かず嫌いしていた。中古CD屋でシンガーソングライターの走りだとかいう売り文句を見つけてなんだそれはなどと思ってしまっていたのだ。それに最近のぼくはPASSレコードのリイシューCDでフリクションから始まってphew突然段ボールだとを聞きなおしていたのだ。


https://youtu.be/rP6kfPI7u3k?t=59s
https://youtu.be/qnPEc12lf28
https://youtu.be/788EWU7xEZk

こういったように、最近はパンク/ニューウェーブばかりを聞いていた、ということもあるかもしれないが、とにかく、荒木一郎の「君に捧げるほろ苦いブルース」を聴いて、とても気に入った。

https://youtu.be/SUdWCYp7hco


これは「なごり雪」くらい広く知られてもまったくおかしくない素敵な曲である。メロディの運びが実に自然でそれでいて非常にエモーショナルである。いわゆる日本のフォークソング的な情緒をまといながらもカントリータッチの優れた編曲を交えて決して湿っぽくならない。ブラス類のオカズの入り方のセンスもよい。なにより荒木一郎の声がよい。サングラスをかけた顔写真のイメージそのままのまさに昭和な声。加山雄三寺尾聰を結びミッシングリンク。歌謡曲がニューミュージックと合流してシティポップスとなってゆく過程に生まれ消えたあだ花。時代の流れによっては第二、第三の大滝詠一として現代の若者にも広く受け入れられたのではないだろうか。

・おまけ:より本格的なカントリータッチといえば吉田拓郎である

https://youtu.be/StBPqA1TGpA
しょっぱなから最後まで初志貫徹の気合の編曲

https://youtu.be/pd4EEmT50iE
阿久悠パウワァー炸裂の詩 編曲はみんな大好き鈴木茂 ぐだぐだなのを吹き飛ばすデビュー2日目の石野真子のパウワァー

チカカクヘイキ

会社へ向かっている途中、聞きなれない言葉を聞いた。「チカカクヘイキガハッケンサレマシタノデ・・・」駅のアナウンスがそう言っていたのである。関東に梅雨入り宣言が出されてすでに一週間はたっていたが、まったく雨は降っていなかった。ぼくはいつも寝室の窓を開けて寝ているが、その日は朝方から空気が冷たく、降雨を予想していたので、傘を持って出かけた。どこにでも売ってあるような透明のビニール傘だった。それは持ち手と骨組みだけが黒で、ビニールはいくぶんくすんで白く曇っているようだった。電車に乗って、買ったばかりのオーディオ・テクニカルのヘッドホンでザ・キンクスを聞きながら車窓を眺めていた。空は薄く曇り、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。こういう日はイギリスの古いロックバンドを聞くに限る。ぼくが聞いていたアルバムはキンクスがまだデビューしたばかりのころのもので、のちに発揮されるレイ・デイヴィスのたぐいまれなメロディセンスはまだ全面的にその素朴で良心的で懐古的な魅力を開花させてはいなかった。でも陰鬱な仕事に向かっているときに聞く美しい音楽はあまりに美しすぎてぼくをあまりにも遠くの地平まで連れ去ってしまう。ぼくは初期キンクスのばらけたバンドサウンドを聞くともなく聞きながら一日の仕事の流れを最初から最後までイメージしてみた。それは困難な障害と意味の無い気鬱がそこかしこに散りばめられた長い長い道のりだった。電車内にはぼくと同じように憂鬱が頭の中に染み込んだような表情の無い顔つきをしたサラリーマンがカーブの振動のたびに揺られていた。いつも見かける顔も見受けられた。ぼくらはいつまでもこのように毎朝電車に揺られて気の進まないままに都心まで運ばれていくのだろうと思った。電車が新宿についた。その瞬間、ぼくの鼓膜は破れ、気を失った。あらゆるものがぼくめがけて飛んでくるのを見たような気もする。意識を取り戻した今も、体は動かない。ぼくは今自分がどこにいるのかも、わからない。

夏の日のソール・ライター、あるいは世界初の古本DJの誕生について

ゴールデンウィークに端的に言って暇だったので駄文を書いていた。そのまま削除するのはもったいないような気がするし、保存しておくにもPCの容量がもったいないのでここに記載しておくことにした)

 

高田渡のライブ゙映画になぎら憲一がゲストにきてトークするというので、渋谷まででて、宇田川町の奥のアップリンクというミニシアターまで向かった(かつて興隆を極めたミニシアター…今では細々とだが粘り強く生きているのは数箇所のみなのだろか)。まだ午前10時を回ったくらいで陽は上りきっていなかったが、暑さが肌の下にじんわりとしみ込んでくるようだった。渋谷駅から宇田川町まではセンター街を通って15分ほど歩く。朝のセンター街からは酒と吐瀉物と糞尿の臭いがした(特に誇張ではなくセンター街は本当にそんな臭いがす日がある)。

チケットは売り切れていた。電車の中で確認したときにはまだ残っているはずだったが、入れ違いになったようだった。ぼくは再度上映スケジュールを見て、次の日曜日には小室等がゲストとして登壇するとあったので、その回に見ようかと思った。

宇田川町のあたりには朝食をとれる店がなかった。カフェ・ヴェローチェはあったがパン類がお世辞にもうまいとはいえない店なので、センター街を引き返してカフェ人間関係でスコーンを食べた(とはいえ、この店のスコーンも大してうまくはない)。

人間関係という名のカフェを知ったのはぼくが18歳で東京に出てきたばかりのころだった。18歳の田舎からきた青年がこの店名を見たときに受けた衝撃は相当なものだった。この店に休みの日の朝に来ると明らかに栃木や埼玉からきたと思しき派手な格好をした若い女性達が何組か連れ立って、いつもレジに並んでいる。ぼくはスコーンを食べながらスマートホンでアップリンクの上映スケジュールを眺めていた。どこか左翼的なラインナップといった印象を受けた(ぼくは左翼という言葉をちゃんと理解していない。なんとなく雰囲気で使っている)。

せっかく渋谷まできたので東京BUNKAMURAで開催されていたソール・ライターという写真家の展覧会を観にいくことにした(この名前にはAOR系の優れたスタジオ・ミュージシャン、おそらくはキーボーディスト、といった趣があるようだ)。その前に少しばかり宇田川町にあるブックオフに寄った。引越しの際に夏目漱石の「吾輩は猫である」がぼろぼろになっていたので捨ててしまっていたが、久しぶりに読みたくなった。でも意外なことに在庫がなかった。たいていのブックオフには我輩は猫であるは1冊や2冊の在庫はあるような気がしていた。その代わりに「こころ」が装丁違いで何冊もあった。取とりあえず買ってみて、読みきらなかったから売った客が多いのだろう。

BUNKAMURAに入る前に近くのフレッシュネス・バーガーでチーズバーガーと生ビールでランチをして、ソール・ライター展を回った(BUNKAMURAという名称には田舎者をカモにしようとする魂胆があるように思える。「BUNKAMURA ザ・ミュージアム」は比較的ハイソな美術館だ(東急の本店に隣接しているが、ぼくのイメージでは、東急本店は幼稚園受験に親子揃いで着用するフォーマルウェアを購入するべき場所です)。もちろん上野動物園あたりの美術館などのように地方からのおのぼり組が大挙して押し寄せることはないのです(でも今日は明らかに背伸びした学生か、フリーターか、みたいな若者もいた。彼はニルヴァーナのTシャツにミリタリーパンツをあわえてその上にひげ面だった)。

ソール・ライターに関して言えば「リリカル」な「詩情」をもった色彩の魔術師といった印象を受けた。しかしいかんせん作風にキャッチーさが欠けていた。それが素人でも名前を知っているブレッソン、エルスケン、ロバート・フランクダイアン・アーバス、あるいはキャパといった写真家との大きな違いだろう。

 

展覧会を見終わってもまだ15時を回ったくらいだった。まだ時間をもてあましていたのでルノワールに入って吾輩は猫であるの気に入っていたページを探して読んでいた。ぼくは長時間同じ椅子に座っているのがとても苦手だ。限界がきたのは17時前だった。

 

思いつきで自由が丘へ行ってみた。自由が丘であればなにはなくても大型のブックオフがあるから有意義に時間を使えるのだ。駅につくと、フェスでやっているような入場管理用のリストバンドのようなものをつけている若い人たちが目に付いた(とはいってもそこは自由が丘、20代前半の若者というより、小さい子供がいそうな30代ぽい人々が多かった)。それとなく彼らの足取りを追っていると、ブンブン低音が聞こえてきた。駅から3分もかからない駐車場で、DJパーティが行われていた。ポスターを見るとみそしるとご飯なる人々がDJをしているようだった。陽が落ち始めて、冷たい風がぼくのほおをなぜた。とても気持ちのよい夏の夕暮れだった。ぼくもビールを買って駐車場の中でDJがセレクトしたビートに体を任せればどれほど心地よかったことだろう。でもぼくは一人だったし、まるで不必要などでかいリュックを背負っていた。ぼくはパーティーへ参加することをあきらめた。それで駐車場を離れて自由が丘の路地をぶらぶら歩いた。でもDJのビートと人々の嬌声はどこまでも風に乗ってきてぼくの耳から離れなかった。街中がみそしるとごはんのビートに包まれているようだった。たまらなくなってぼくは駐車場まで戻っていった。すると駐車場のすぐそばに古本屋があった。そこはちょうどステージに置かれたスピーカーの真向かいになっていた。店先には100円の文庫本がぎっしりと並んだ台があった。ぼくは古本をあさるふりをして音楽を聞くことにした。それはえにもいわれぬ心地よい体験だった。みそしるとごはんたちのビートにあわせて体を上下しながらぼくは文庫本をDIGした。陽がほとんど落ちてきて、風はますます冷たくなり、最高度に心地よかった。数年前に亡くなった川勝正幸のポップ中毒者の手記をはじめて、掘り出し物が何冊か見つかった。ぼくはまさに古本DJと化していた。世界で始めて、古本DJが誕生した瞬間だ、とぼくは思った。いつの間にか陽が落ちて空がその明るさを失い、駐車場と路地と古本屋の軒先の灯りと、みそしるとごはんのビートだけがぼくを包んでいた。

2017年の資料性博覧会(ぼくのゴールデンウィークの思い出)

ゴールデンウィークに端的に言って暇だったので駄文を書いていた。そのまま削除するのはもったいないような気がするし、保存しておくにもPCの容量がもったいないのでここに記載しておくことにした)

・ぼくはだめな人間だ。


・だめというのはぼくという人間のある一面、もしくは、複数の面に関してであり、ぼくのすべてがだめであるということではない(ぼくという人間にも、倫理的に正しいと思われる面や、能力的に一般的な水準に劣っていない面があるとは、少なくともぼく自身には、思われるし、客観的にも、幸いに、ある種の試験の結果や、ぼくに関わってきた複数の人々の証言から、否定できないと思う)。


・ぼくのだめな面は、ぼくがずっと若いころ、それこそ幼稚園に入ったころから、不変なようである。つまりぼくは、人見知りで、引込み事案で、ものごとに継続に取り組んだり、なにごとかを成就させる意思と能力に乏しく、注意が散漫で、お金の無駄遣いが多すぎる。

 

・ぼくのこういった欠点は、ぼくの人生にある種致命的な問題を引き起こしてきた。

 

・ぼくは、いわゆるオタクと呼ばれる人々にあこがれる。

 

・それは、彼らの見た目や、ときに揶揄される言動などの、外面的なことにあこがれているのではない(ぼくは、いわゆるオタクと呼ばれる人々について、世間に膾炙したイメージに乗っかってしまっているが、むしろそうでない人々の方が多数ではないかとも考えている)。

 

・ぼくがあこがれているのは、彼らの一途な情熱、行動量、購買力、独立心、好奇心の対象を同じくする仲間との活発なコミュニケーションなどについてだ。

 

・ぼくは、ぼくの欠点によって、ひとつところにいられない体になってしまったし、じっくりと本を読み続けることもできない。

 

・そこで今日も、とりあえず部屋を出て、新宿へ向かった。最近、歌舞伎町の奥のエリアを、ようやく、強い恐怖心に足がすくむこともなく、歩けるようになった。今日もぼくは、エロスとヴァイオレンスの残り香が立ち上るあのあたりのエリアを散歩し、その刺激を肌で感じるのを楽しみに、とりあえず行ってみたいと思ったのだった。ホストクラブの馬鹿でかいネオンサイン、かち割られたまま放置されている看板、あるときは雑然と、あるときは整然と並ぶ大量のゴミ袋、酒と吐しゃ物の臭い、ボディコンシャスなドレスに身を包んだワンレングスのアジア系女性、そういったものが、なにか人生や社会というものに(過度にソフィスティケイテッドされた現代社会の大部分などよりも相応程度シンプルなものであるとはおもうけど)、感覚的に触れているという気にさせてくれるからかもしれない(ぼくが部屋をでて電車に乗って最初にしたことはスマートホンでゴールデンウィークに東京で開催されている催し物を調べることだった。もしそこになにかぼくの気を惹くものがあればこんなゴールデンウィークの真ん中にわざわざ歌舞伎町を散歩しようなどと考えてなかったかもしれない。でも東京で行われている催しは多くの種類のビールが飲める祭りだとか肉が食える集まりだとかそういった実にくだらないものばかりだった。控えめにいってぼくは東京の文化度の低さに反吐がでそうになった。今思えばぼくが見たWEBサイトが良くなかったのかもしれない)。

 

・新宿にきたのはよいが、新宿には昨日もきていたので、なんだかやるせない気がした。そこでツイッターを眺めていたら、資料系博覧会という同人誌即売会中野サンプラザで行われていることを知り、カレーを食べて中野へ向かった。

 

・とはいえ、ぼくはかつて同人グッズの即売会に足を踏み入れたことがあったが、特になにかを買う予定はたてていなかったしブースに座っている人々に左右から一挙手一投足を監視されているような気がして誰にも話せずにすぐに出たことがあった。今回も同様の状況になることが容易にイメージできたので、気が重かった。そこでまずは久しぶりに中野にきたということもあり、中野ブロードウェイを一回りしてみることにした。空は気持ちよく晴れていたが中野ブロードウェイへの道すがらはア-ケードの商店街を通っていったのであまり陽光の恩恵にあずかれなかった。

 

中野ブロードウェイにはさすがに濃密な店舗が展開されていた。ぼくはまず3階までエスカレーターであがってまんだらけから回り始めた。しかしお金がないので気になるものがあっても買うことはできなかった(上村一夫安部慎一の漫画など買ってみたかった。そういえばこの前GINZA SIXの蔦谷書店に行ったとき安部慎一美代子阿佐ヶ谷気分が置いてあった)。まんだらけの買取コーナーには多くの人々が漫画や玩具をもって並んでいた。中にはみかん箱を何箱も床に重ねている人もいた。ロボットの玩具をむき出しでもってきている人もいた。いらいらしている中年の男に店員の女の子がゴールデンウィークは買取が込み合う時期なのでと言っていた。そのあたりだけが妙に汗臭かった。他にもCD屋や、サブカル界隈で有名なタコシェという本屋を見た。CD屋はニューウェイブテクノポップの在庫が非常に充実していた。ヒカシュープラスチックスフリクション、TACOといった有名どころはもとより、ゼルダのアルバムがそろっていたのには驚いた。ぼくは信念をもって経営されているこの店で買い物をすることで少しでも売上に貢献したかった。なによりもゼルダの初期のアルバムを聞いてみたかった。でも使えるお金はなかった。ぼくはとてもふがいなく情けない気持ちになった。まっとうに働いてきたどころか、残業も少ない時でも月に40時間はしていたのに、中古CDの1枚も心置きなく帰る金が手元に残っていないというのはなんとも悔しかったが、ないものはないので致し方なかった。また、三島由紀夫を中心に日本の戦後文学、アングラ演劇、幻想文学、のラインナップがかなり充実していた古本屋もあったこともここに記しておく。ぼくは買い物できなかったが、好事家の方にはぜひとも足を運んでいただき、商品を購入していただいたりして、こういった店にはずっと続いてもらいたい(しかし本も音楽もデータで手軽に、安く、また場所をとることがなく手元に置いておける時代に、CDや本はいつまで必要になるだろうか。一方でレコードの売上が伸びているという話もあるが、それは一部の物好きの金持ちが余った金を慈善事業に回してしているようなものかもしれない。なんにせよこれまでとはまったく違ったお金の回り方になってきつつあると思う)。

 

・考えてみれば中野サンプラザの雄姿は中野にくるたびに眺めてもののその中に入るのは始めてなった(ぼくの友人に中野に住んでサンプラザの結婚式場でアルバイトをしていたという明大生がいた)。サンプラザではいくつかのイベントが同時に開催されていた。まんだらけのオークションとカントリーガールズというアイドルのライブ(ももち引退などど書いてあった)と、ぼくがツイッターで見かけた資料性博覧会だった。サンプラザの一階の天井は外から見たとおり斜めになっていて硝子張りで、太陽の光がそのまま届いていた。内装が白を基調にしていることもあってまるで外にいるような明るさで、まさにサンプラザといった様相だった(日本には○○サンプラザがいくつかあるらしく、ツイッターで検索しただけでも栃木と札幌にあるのを観測した。それらも中野サンプラザのように陽光がさんさんと降り注ぐような建物なのだろうか。古い洋館などにはサンルームという部屋がよく見かけられる。また洋館ではないが奈良に志賀直哉が自身で設計した旧居が残っており建物全体も瀟洒で美的であったがそのサンルームはとりわけ素敵であった。その建物は近隣にある奈良文化女子短期大学のセミナールームとしても使用されており端的に言ってひどくうらやましい)。フロアにはアイドルのライブの開場を待つ人々が並んでいた。その列は外にも続いていた。かなりの人数だったが整然と並んでいた。ぼくは外に出てみた。グッズ販売や着替えのためのテントがあって、アイドルのファンらしき人々がたむろしておのおのグループになって喋っていた。若い人も中高年も、男も女もいた。なぜかしらももクロのTシャツを着ている人もいた。また、自作と思しき、低画質でアイドルの顔写真をプリントしたTシャツを着ている人もした。ぼくは驚いた。それは様々な年齢、性別の人が集まっていることもそうだったし、彼/彼女らのほとんどがクグループやあるいや2人組みで仲良く談笑していることだった。彼らはどこで知り合うのだろうか。ライブ会場だろうか。年齢の性別に隔たりがあるのに仲がよさそうな一団もいた。彼らがうらやましかった。背景となる生活は大きく違うだろに、アイドルのことで楽しそうに話していた。ゴールデンウィークのさんさんとした陽光に祝福されながら穏やかに幸福な時間を享受していた。一人でいるのはぼくくらいだった。ぼくはスマートホンを片手に話さずに広場を一周してみた。でもやはりみんな楽しそうだった。それでぼくは建物に入ってエレベーターで資料性博覧会の会場フロアまでむかった。

行かなければよかったのに日記 2017年の東大五月祭

東京大学の五月祭へ行ってきた。


お昼の前に本郷三丁目の駅に着いた。とんでもない人手と暑さだった。早くもうんざりした。腹がへっていたので、駅前の名曲喫茶にはいった。外は夏なのに、梅雨時の押入れみたいな感じがした。隣のテーブルにおじさんとおばさんが座っていた。すこしたって、その息子と嫁らしい二人連れがきた。またすこしたって、また新しい二人連れがきた。その後でさらにもう一組、新しい二人連れがきた。みんな兄弟で、パートナーを連れてきたみたいだった。みんな若かった。おじさんは、官僚らしかった。俺のひとつ年上のどこそこの政治家はうんぬん、みたいな話をした。みんな育ちがよさそうだった。ぼくはなんだかいやになった。

 

東大へ行った。キャンパス内はもっとひどい人手だった。実はぼくは昨日もきていたけど、見物の途中で帰ってしまっていた。それで、もっと見たいものがあると思って今日もきた。でも人の多さにうんざりしてしまった。お芝居をやっているらしかったが、開始時間までは一時間半ほどあった。ぼくは一人だったので、ぼくに居場所はないように思われた。キャンパスを出て、近くのカフェで時間をつぶした。


時間になったので芝居を観にいった。よくわからない芝居だった。若さだな、と思った。やることがなくなったので、東大をでた。


御茶ノ水の中古CD屋さんまで、暑い中を歩いていった。でも店は閉まっていた。午後二時くらいだった。ひどい暑さだった。がんばって秋葉原まで歩いた。ブックオフへ行った。でも何も買わずに店を出た。時間を無駄にしてしまった。疲れたのでカフェに入った。でもまわりがうるさかった。関西弁のおばさん二人組みとぶつぶつ独り言を言っているスーツのおじさんにはさまれてしまった。すぐに店を出た。もう一度ブックオフに寄った。でもやっぱりなにも買わなかった。


電車に乗って上野御徒町まで行った。夏の服がなかったので、買いたかった。ポロシャツを買った。近くにブックオフがあったので寄った。でもやっぱりなにも買わなかった。