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東京ちんこ倶楽部 〜哀しみのLast dance〜

生。社会。すべてが、ちんこ。

仕事を辞めてもいいはずなのに

春になり、新しく社会に出る人々の話題が耳に入るようになると、ぶらぶらと街を歩き回ったり、喫茶店で時間を潰したりしていた、学生時代を思い出してしまうようだ。
やることがなかったし、とりたてて楽しいこともなかったので、多少なりとも無聊を慰めるために、古着屋や、古本屋や、中古CD屋をよく歩き回っていた。そうして一時期は頻繁に、服なり、本なりを買っていたが、買った服のほとんどは、持ち帰ってみるとあまり着る気にならなかったし、本はいざ読んでみると途中からつまらなくなるといったことが、往々にしてあったので、次第に、ものを購入するという意識がなくなり、なにか珍しいものを見つけて、気を紛らわせるためだけの、物見遊山のような行為となっていった。
幸い、東京には、それ一個だけとっても、たとえば天神にも勝るような、巨大な街が、山手線を中心にして方々に散らばっていたし、店の数も腐るほどあったので、いくら歩いていても、飽きることはなかった。はじめは渋谷や吉祥寺をふらつくだけで満足していたが、もの足らなくなると、徐々に、新宿にも足をのばすことになった。そうしてそのうち、原宿や、下北沢や、高円寺や阿佐ヶ谷や荻窪といった町も加わり、最後の方は、上野や神田や秋葉原まで、思い立ったらすぐに、出かけるようになった。
一緒に歩く暇な友人がいるときには、デパートや百貨店や路面店で、服を見ることが多かったが、そのうち、そうした友人と疎遠になると、ぼくは1人になり、そうすると、人々が連れだって楽しそうにしていたりする服屋などには自然と入りづらくなり、ぼくと同じような1人客ばかりの、中古CD屋や、古本屋を回ることが多くなった。
ぼくの物見遊山にはどこかしら苦行めいたところがあり、勉強をしなくては、アルバイトもして、少しでも学費の足しを稼がなくてはと、内心では強く感じ、罪の意識に心を苛ませていた。でも結局数年間にわたって、決してそれをやめることができなかった。自分自身をあまりにも責め立て、軽蔑していたために、時に目の前が真っ暗になったように、CDや、あるいは古本の背表紙を眺めながら、ふらふらとして、意識が遠のくこともあった。
なぜぼくがわざわざ東京に出てきてまで、親の脛をかじりながらこんな生活をして、自分自身をスポイルしていたのか、よく分からなかったが、このままでは自分は駄目になってしまう、いや、もう取り返しがつかないのかもしれないと感じるとき、妙な快感が生じていたような気がする。それは決して即物的な喜びではなく、そんなものとは比べものにならない、ぼくの内面の宇宙の深淵から、湧き出るような陶酔的なものであった。ぼくの本当の喜びは、今でもそんなところにあるのかもしれないから、ぼくは明日すぐに仕事を辞めても、本来のぼく自身にかえるだけだし、なんの痛手も、ないはずなのにと、思わなくもない。