東京ちんこ日記

生。社会。すべてが、ちんこ。

2016年の、「上質な暮らし」って、こういうことなのかも、しれない

【「上質な暮らし」って、なんだろう。】

もちろん、決まりきった答えは、ないとは、思うけど、「自分なりの、満足感」を得られるがポイントなのは、間違いが、無さそうだ。

仕事や、趣味だけでなく、「聞く音楽」や、「カバン」、「夜の暮らし」など、特別に、お金をかけなくても、自分なりに、工夫して、生活の、ひとつひとつを、丁寧にすることで、きっと、毎日が、変わるはずなんだ。

そんな考えに、基づいた、「上質な暮らし」のひとつの例として、とある圧倒的成長ビジネスマンの休日を、覗いてみた。

【お気に入りの音楽で、爽やかな朝を】

4時間の睡眠をとるとしたら、それは、1日の6分の1は眠っているということ。

本当は、もう少しだけでも、眠りたいけれど、圧倒的成長ビジネスマンにとっては、なんらの生産性もない睡眠の時間は、「無駄」の一言。

休日だって、6時には起きて、出勤、したい。

とはいっても、なんとなく、睡眠不足。そんな朝は、出勤時間を使って、リフレッシュ。

そのためにぼくらには、「上質な音楽」が、必要なんだ。

今日のチョイスは、「フリッパーズ・ギター」。

小沢健二」と「小山田圭吾」が在籍した、カルト的なバンドだ。

春の到来を確信させる、爽やかな朝には、彼らのファースト・アルバムの、「three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった」を、最新テクノロジーの詰まった、「BOSE」のヘッドホンで、楽しむ。

ほおをなぜる、柔らかな風。耳を包む、甘酸っぱいメロディーと、心地よい、ビート。

これからの長く厳しい労働へ向けて、確かな助走が、完了だ。

【デキるビジネスマンの選択は、ラギッドなPCと、クラフツマンシップあふれる、上質なカバン】

デキるビジネスマンの戦闘服は、もちろん、スーツ。

そして、カバンの中には、いつでもどこでも仕事ができるように、ラップトップPCを、イン。

もちろん、デキるビジネスマンなら、ラギッドな男のための「レッツノート」。やわな「マック」は、アウトだよね。

さて、仕事のための「ギア」は、ヒジネスマンにとって、命よりも、大事なもの。

だからこそ、それを収めるカバン選びも、ビジネスマンの成長を、左右する。

ぼくのセレクトは、TUMI(トゥミ)。防弾チョッキにも使われてる、「バリスティック・ナイロン」で作られた、世界最強のブランドだ。

これなら、銃社会のアメリカに、急な出張が入っても、安心。

気分はまるで、「三菱商事」の、タフガイだ。

【夜の暮らしにもこだわるのが、デキるビジネスマン。厳選された上質な体位で、とろけるような甘美な夜を】

デキるビジネスマンは、夜も、デキる。

もちろん今夜も、男と女との性的な満足を追求するべく、夜の営みに、励む。

昼の仕事で培われた、「上質」を見抜くセンスを、夜も、存分に発揮。

「無駄な体位の変更は、夜のボルテージを、下げるだけ。厳選した上質な体位で、上質な交わりを。」

夜のビジネスマンは、こう語る。

彼は、体位のバリエーションや、見た目の珍奇さが、夜のモチベーションをあげるわけではないことを、熟知している。

「四十八手、上質にしかず」

彼は通常、2、3の、厳選された、上質な体位しか、使わない。

でも、それで、十分なのだ。

かれは、性的に、しあわせでした。



以上、東京ちんこ倶楽部が提案する2016年の「上質な暮らし」の一例はいかがでしたでしょうか? 何一つ特別なことはしていない、でも少しだけ、気持ちが、いい、そんな一日の、参考にになれば、幸いです。

好きなもの、気になるものを追いかける途中で、夜の生活にも、こだわりながら、自分なりの満足とは何かを考え、ちょっとした工夫をするだけで、日常は、もっと上質なものになるのでは、ないでしょうか。






センター街の、自由

ぼくは、ザ・ポップ・グループを、聞きながら、渋谷を歩いていた。

そこは、センター街だった。

ぼくは、マスクを、していた。

喧騒の中で、ぼくだけが、自由だった。

ぼくの耳は、ギターの弦が、空間を斬る音と、ベースとバスドラムが、空気を蹴り出す音しか、聞いてはいなかった。

ぼくの口は、白い布が、覆っていた。ぼくは、誰にも、なにも、話す必要は、なかった。

そこは、センター街で、街の、谷底だった。

丘の上から、たくさんの人たちが、流れてきた。

センター街は、夜だった。

カラオケ屋のネオンが、牛丼屋のネオンが、ピザ屋のネオンが、バーのネオンが、照らしていた、街と、人を。

誰もが、誰かと、話していた。

若い男達が、若い女達と、話していた。

日本人が、中国人と、黒人と、白人と、話していた。

ぼくだけが、一人。

ぼくだけが、自由だった。

ぼくの目だけが、自由に見ることができ、ぼくの耳だけが、純粋で、ぼくの心だけが、深く、沈んでいた。

ぼくは、ザ・ポップ・グループを、聞いていた。


春は、残酷

春の嵐が吹いて、ぼくは、ヘッセの小説を、思い出した。

営業の途中に、とある大学の、キャンパスを通った。桜の花はまだ散ってはいなかった。入学式を終えたばかりの新入生達が、なにかが始まるのを待っていた。サークルの勧誘が行われていた。キャンパスは笑い声に溢れていた。彼らは希望に満ちていた。なにが起こるのかもわからない、まだなにも考えてはいない、可能性に満ち溢れた、もっとも純粋な希望のようだった。

雨上がりの空気は湿り気を帯びて、むせるほどだった。空気さえ、希望をはらんでいるような気がした。 

ぼくはぼく自身にも今日の彼らのような時代があったことを思い出した。それは遠い昔のことだった。そしてそんな時間が二度と帰ってはこないことを思った。そんなことはとっくの昔に知っていたが、思い起こさずにはいられなかった。呼吸をするたびに、春が、希望が、ぼくを侵した。

それはとても辛いことだった。

帰り道、キャンパスのはずれに、一本の桜があった。その花は幹を覆い隠すほどに咲き誇っていた。その美しさはとても残酷だった。それはとても辛いことだった。

新幹線でGO

東京駅で新幹線に乗った。車両は山手線よりも高い高架の上を走った。有楽町や新橋、汐留に、気が狂っているような外観の高層ビルが立ち並んでいるのがよく見えた。たまたま車内販売がやってきた。弁当を買っていなかったので、カツサンドとお茶を買い、簡単に食事をした。
横浜駅を過ぎてからしばらくして住宅街の中にぽつりとブックオフの店舗があるのが目に入った。東京の店舗と同じように派手な三原色の看板がでていた。あたり一面が建て売りの戸建て住宅におおわれていた。高層ビルが並んでいるのは日本の国土のほんのごく一部なのだった。
隣の席に座っていた男がトイレにたって、一席だけ席が空いたとき、韓国人のカップルがやってきて、女がその席に座り、弁当を食べ始めた。やがて男も立ちながら弁当をつまみ始めた。くちゃくちゃという音と韓国語が車内に響いた。弁当を食べ終えたあとで、昆布のような臭いのするものを食べ始めた。車内に強い匂いがただよった。 
ぼくは彼らの会話とくちゃくちゃという音に耐え入れず、手に取っていたウェルベックの小説をテーブルに置いてiPodで音楽を聴くことにした。でもそもそも読書をしたかったのだから聞きたい音楽がすぐには浮かばなかった。そこで山口百恵のデビュゥ・アルバムを聞いた。アルバムは〈禁じられた遊び〉で勢いよく始まった。〈怖くない アアア 
怖くない アアア〉という扇情的な、リフレインを、百恵は十分な節度で包んで歌いあげていた。14歳の歌唱とはにわかには信じられないくらいだった。
百恵の歌唱には自己顕示がない。これ見よがしに、それらしく発音を加工したりしない。彼女の歌唱のどこをとっても、そこにあるのはごまかしのない彼女の声そのものだった。それは彼女の体の深いところから、肺を通り、声となってぼくの耳に届いた。
iPhoneを電源につなぎ、Wikipediaでこのアルバムのことを調べてみると、デビュゥ・アルバムではなくセカンド・アルバムであることがわかった。発売は1973年12月。A面はすべて都倉俊一によるオリジナル作曲、B面は国内ポップスのヒット曲のカバーで分けられていた。B面にはアグネス・チャン〈草原の輝き〉のカバーまであった。その地位を不動にした後期の山口百恵の路線を思うと意外な選曲であった。
もっともこのアルバムには百恵初の大ヒット曲であり、後の百恵の売り出し方を決定づけた〈青い果実〉も含まれていた。(〈あなたが のぞむなら 私 なにを されてもいいわ〉という14歳の少女が歌う際に衝撃的な効果をもたらすリフレインで始まるこの曲は百恵のみならずのちの日本のアイドル歌謡曲の歴史を塗り替えたといっても過言ではないだろう)

新幹線はいくつかのコンビナート地域を過ぎて静岡の茶畑を横切っていた。そのうちPOLA化粧品と大塚製薬の、田舎には不釣り合いなほど見事に設計された工場が車窓を過ぎていった。

田舎…こんなところにも住んでいる人がいるんだ…。

それにしても空は広く、雲はどこまでも大きかった。

ぼくはiPodをポータブルアンプにつなぎ、ヘッドホンはゼンハイザーのHD25を使用していた。

名古屋の大叔父がなくなったことを思い出した。そして、大叔父に好かれていたぼくの母親のことも。母親は大叔父の死に目に会えなかったのだと後から聞いたとき、どんな思いをしただろう。きっといつものように声にださず涙をこらえて静かに悲しみに耐えたことだろう。そして父とともに考えたかもしれない。〈次は自分たちの番だろう〉と。生物的な衰弱という避けられない事象によって、経済的にも、政治的にも、文化的にも、強制的に、速やかに、世代の交代が進みつつあった。でもそれで、いずれは〈ぼくらの世代にとって〉好ましい時代が訪れるのかというと、そうは感じられなかった。

死にそうな生活

ここ数ヶ月、〈健康で文化的な最低限の生活〉というものを1日たりとも過ごせていない。

平日は4時間を超える残業が常だし、休日の半分以上は仕事で潰れている。

たまの休みも寝て過ごしたりするし、体調がすぐれず、また、仕事のことが頭の片隅に常にあり緊張を強いられているので、本当に休めた気がしない。

残業と休日出勤は月に100時間程度にはなるだろう。しかし20時間をのぞいてすべてサービスである。〈失われた〉残業代は月に10万円はくだらないだろう。そうすると、ぼくは少なく見積もって50万円ほどをただ働きしたことになる。

〈健康で文化的な最低限の生活〉の一つの基準として1日の労働時間が8時間であることがあげられるが、これは理にかなっていると思う。定時に帰ることができれば移動時間をのぞいて23時就寝として5時間ほどを就寝前に確保することができるだろう。睡眠時間は最低でも7時間はとらないと疲労を癒すのに十分ではない。睡眠以外で5時間ほどあれば、炊事、食事、風呂、洗濯、掃除などをまともに行うことができ、読書や勉強や趣味に費やす時間も2時間ほどはとれる。それくらいは時間がないとまともに国内外の政治、社会、経済情勢の情報を収集することも、趣味を楽しむこともできないだろう。家庭をもてば、子供の相手などで、必要な時間はさらに増えるだろう。

〈ぼくの残業時間〉はぼくになんらのペイバックをもたらすことはなかった。ぼくの限りある20代後半から30代後半の時間を削って生み出した残業とその成果は、ぼく自身にはなんらの経済的な無益をもたらさなかった。

残業代の支払いは法律的に定められてはいるが抜け道はいくらでもあるし国から公認もされているので労働者からすれば残業代を期待するほうが間違いとも言える。

〈管理職〉がまったく社員の仕事量を〈管理〉しないために社員の間で著しい業務量の差が生じている。

誰がやるべきか明確に決められていない仕事が大量にあり、担当も責任も不明瞭なままに一部の社員が対応している。会社にとって彼らは欠かすべからざる有益な社員と言える。しかし彼らには残業代が支払われず労いの言葉すらも一切ないために会社は彼らを冷遇していることと同じである。

会社にとって益の少ない社員ほど仕事の量も成果も少なく、退社時間も早い。そのことが、仕事を多く抱えている有益な社員にストレスを与えている。自分たちよりも成果の少ない社員が、人間的な生活を享受している。

退社時間が早い社員はみなそれを当然のことと思っている。あからさまに体調を崩すほどに働いている社員が隣のデスクにいるのに特に声をかけたりなどはしない。

退社時間が早い社員にとっては自分の仕事が終わったら退社するのは当たり前のことである。誤りはないし、誰も咎めることはできない。彼らだって毎日、日に数時間の残業をしている。

仕事量が多い社員は恒常的に仕事が多く、そうでない社員は恒常的に退社が早い。

彼らはどちらも間違ったことはしていないが、成果を出しても残業時間が増えても給料に反映されない点で、残業が多い社員に不満がたまっている。

仕事の配分は〈管理職〉の役割であるが彼らはその職務を放棄している。

仕事の多い社員がそうでない社員に仕事を依頼する分にはなんの問題もないが、仕事の少ない社員にはノウハウの蓄積がないため任せることができず、ノウハウを伝えるにもそれをもった社員は常時業務を多数抱えており時間に追われているのでなかなかそうはならない。

業務を多く抱えている社員は深夜残業と仕事の持ち帰りと休日出勤が常時あり体調を崩す者が多い。

ぼくは、最近、心臓がいたむことがある。肋骨の奥で、歯車が噛み合わなくなり、〈きしむ〉ような感覚がする。また、1年ほど前からで足した蕁麻疹が、ひどくなった。以前は胸や背中や手に出ているだけだったが、最近は顔にも容赦なくあらわれる。

いつも、睡眠不足のときのような頭の状態で、判断力が鈍くなった気がする。仕事中は、緊張感でなんとかもっているが、休日などは、眠気でずっと不快だし、陰鬱な気分が晴れない。

蕁麻疹があらわれるときは、決まってストレスを感じるときで、上司に急ぎで仕事を頼まれたときなどが特に多い。顔にもでているのだから、上司には察してほしいとも思うが、それは過ぎた望みだろう。

仕事中は、いくつもの業務を並行して、数時間単位の締め切りに合わせて進めているので、今なにを進めているのか、次にやるべきことがなんなのかを整理するだけでも、頭が締め付けれる気がする。そのような状況でも次から次に仕事が増えていく。タスクリストがすぐにいっぱいになってしまって、役に立たない。あまりにやることが多すぎて、ストレスが強く、脳が破壊されるような感覚がする。実際に、記憶力が弱くなったように思う。

これほど仕事をしていても、ぼくにとっての仕事は、食い扶持を稼ぐ手段にすぎないのが、馬鹿げている。まるで、仕事に人生を捧げているような働き方だ。

せめて残業代がでないのならば、確実に〈スキルアップ〉ができていればよいが、あまりにも煩雑な仕事が多すぎて、別の仕事で応用がきくのか不安だ。

いくら働いても、楽にならないのなら、いっそのこと、この社会を捨てたいが、ぼくにはそれは難しい。

時間はないのはもちろん、お金もないし、もはや、健康も失われてしまったし、希望がない。

ストレスを解消するために、昔は、本を読んだり、新しい音楽を聞いていたりしたが、だんだんと、文化を楽しむ体力も気力もなくなり、ただひたすら、食うことに楽しみを見出すようになってきた。少し値がはっても、うまいものを食う。

うまいものといってもたかが1500円くらいでくえる、外食の、カレーや、天丼や、そばなどで、大した金はかからないが、積み重なると、かなりの出費になる。この多少、食い道楽めいた振る舞いの原因は、明らかに長時間労働によるストレスなのに、いくら残業しても給料が増えないものだから、出費がかさむばかりで、馬鹿馬鹿しい。

外食に加えて、つまみ食いのお菓子だとか、飲み物だとかも、じわじわと食費を積み増しているが、そのことも、口惜しい。

一度失われた健康が、完全にもとに戻るのか、疑わしい。肉体的な健康はもちろん、精神的な健康もそうだ。鬱病になってしまったら残りの人生の生き方がだいぶ変わってくる。

昨日も休日出勤したが、もちろん給料はでないし、肉体的にもつらく、どうにも、やるせなくなく、3時間もせず、切り上げてしまった。心底、どうでもよくなってしまった。

昨日残した仕事のことを後悔している。また仕事に追われている。

どう考えても今の環境が人間的とは思えないが、〈戦時中〉だと思って耐えている。もうずっと経済の世界では戦争をするようにたくさんの人々が働きづめて、多くの犠牲を払ってきたのだ。

〈戦局〉は悪くなることはあっても、基本的にはよくなることはないと思う。

戦闘好きの〈蛮族〉にでも生まれ変わるしかない。実際、ビジネスの世界は彼らが支配していて、自らの死をものともせずに働いている。

〈蛮族の論理〉がどんどん社会全体に蔓延してきている気がする。IT化によるビジネスコミュニケーションの速度の向上(Eメールなんて廃止になればよいのに)、派遣労働に関する規制の緩和、ホワイトカラーエグゼンプション、24時間、コンビニさえあれば、栄養ドリンクが手に入る環境、すべてが、ぼくのような〈人間〉を不幸にするばかりで、蛮族が、喜ぶばかり。

〈動物〉である消費者や労働者は〈蛮族〉の思いのままに操られている。

死と過労

体が、もたない。ここ2ヶ月くらい、ずっと働きづめだった。休日もなければ、もちろん定時で帰れる日もなく、毎日、5時間ほどのサービス残業をして、夜の食事は、自炊する体力が残っていないし、まともな店も開いていないので、毎晩、すき家で済ませていた。
大叔父が亡くなった。たしか80くらいだと思う。中卒で、田舎から集団就職で名古屋へ出て、IHIだかどこかのエンジニアとして叩き上げた傑物だった。よく田舎にも帰ってきていて、実家の宴会に呼ばれると、お前はいくつになっても結婚しないなといった意味のことを、名古屋弁で言われて、からかわれたりした。それが彼なりの愛情の示し方だった。笑う時は、鯨のように目を細めた。しかし二年ほど前に癌で胃を切ってからは驚くほどにやせ細って、酒もほとんど飲まなくなっていた。そうなったときに、ぼくは初めて彼を数少ない血のつながった人生の先輩なのだと強く感じた。
ぼくは大叔父の死に立ち会うことはできなかった。ぼくの母親が彼の死をぼくに知らせたのは、彼が亡くなった翌朝のことだった。ぼくは大急ぎで荷物をまとめて田舎へ帰った。飛行機から電車を乗り継ぎ、実家に帰ったのは間もなく通夜が始まる午後7時の直前だった。通夜の会場に入ると、奥行きがある部屋の奥に、鮮やかに一面に花を飾られた祭壇があり、その手前に線香台と、棺があった。ここ数年でもう何度も見た光景だった。ぼくは蝋人形のようになってしまったかつての陽気な酒飲みの死に顔を見た。思っていた通り、涙をこらえることができなかった。涙は眼球のまわりにとどまらずに、ほおを伝って一滴一滴流れていった。まるで絵に描いたみたいな泣き方だな、とぼくは思った。でもそれからは、両目がひどくうるむことはあっても、涙を流すことはしなかった。通夜のあとで食事をした。会場の脇、棺から歩いて五歩のところに、控え室の扉があった。入ると、畳敷きの部屋に、十五人は座れそうなテーブルが座布団が用意されていて、よく知られた地元の料亭から運ばれた仕出し料理が並べられていた。叔父や叔母が中心に先に腰を下ろして、おもむろに宴が始まった。しかし故人の話題はすでに語り尽くされていた様子があって、気がつけばぼくらは、銘々が旅行した土地で見つけたうまいものや、地元の飲み屋をあげあっていた。卓を囲んだ親族がひと通りそれを語り終わると、年輩の親戚からおもむろに帰り支度をした。
ぼくは大叔父の孫にあたるぼくの弟や、同年輩の親戚の男たちと線香番として葬儀場に一晩残った。でも一ヶ月前からの多忙がたたって、夜通し起きておくことはできなかった。深夜二時に一度寝たが、すぐに弟に叩き起こされ、五時頃までは棺の前の椅子に座っていた。外を走る車が増え、街が動きだす様子がなんとはなしに感じられる頃、告別式の準備のためにぼくの親世代の親戚たちが帰ってきたので、彼らと交代して、少しだけ眠ることができた。控え室には親戚連が集まってきたので、押入れに入って寝た。眠ったとも眠れたとも言えない、緩慢なまどろみがずっと続いた。
でもまったく疲れは取れなかった。昼過ぎに告別式が始まったが、ぼくは悲しみと同時に、気を抜いたら心臓が止まりそうな疲労感と戦い続けなければならなかった。葬儀場の椅子にずっと座っていると心臓がおかしくなりそうだった。体を動かさない分、血液を循環させるために、心臓に負担がかかっていた。
ここ数年、何人もの親戚が続けざまに亡くなり、葬儀の手順についてだけは常識的な範囲の知識をようやく得たが、葬儀の悲しみも、辛さも、寂しさも、肉体的な負担のきつさも、なにもかも、少しも、楽にはならなかった。
告別式のあと、いつものように親戚全員でマイクロバスに乗って火葬場へ行った。もたもたと遺族たちが葬儀場を出る中を、男たちが、六七人で棺を抱えて霊柩車に運んだ。
葬儀場は違っても、火葬場はいつも同じ場所だったが、それはどことなく喜劇的な印象を与えた。しかし火葬場の一棟だけの建物は来るたびに憂鬱になりそうな灰の臭いがした。もっとも1日に何度も人間を焼いているのだから当たり前のことだった。不運な建物だった。たぶん経済成長期の最初の段階あたりに建てられ、数十年の年月が過ぎても一度も建て替えられることなく、人々の記憶の地平の外れあたりでひっそりと、かつての人間の塊を焼き続けるための建物だった。
焼き場はその日は"渋滞している"らしい"と告別式のあとで誰かが言っていたが、予想に反して、かつてのやり手エンジニアのやせ衰えた亡骸は、案内人の手で、とてもスムーズに焼却炉まで運ばれた。棺は乗せられたときと同じように、同じような顔ぶれの男たちによって車から降ろされ、担架のようなものに乗せられた。そうして棺が炉の前に来たとき、"案内人"(ぼくは彼らのような職業をなんというのか知らない)が、最後に、棺の顔の部分にある蓋を開けて、故人の兄弟達が、最後の別れを告げた。それから、棺が炉の中に押し入れられると、案内人が、電気照明のようなスイッチをいれた。それは焼却炉の焼却炉としての役割を開始させるためのものだった。前にここで誰かが焼かれたときは、案内人は、遺族のしかるべき人間に、肉親との最後の別れを自らの手で始めてよいものかどうか聞いたものだったが、今回は、なにも声をかけなかった。一連の流れが、コーヒーを淹れるように、とどまることなく進んでいった。
ぼくたち遺族は大叔父の肉体が焼かれている間、いつものように待合室をあてがわれたが、ぼくは疲労と眠気があまりにもひどかったため、トイレの個室で便座に座り、2時間ばかりを過ごした。規定の時間になってから焼き場へ行き、残された者で順番に箸のようなもので白い骨を拾って壺へいれた。骨は生前の故人の個性によらず誰もがおなじような色をしているようだった。光沢がまったく失われたためか、コピー用紙のように純粋な色をしていた。
すべてを済ませて実家に帰り、最近実家が飼いだした猫と一緒に寝た。まだ2歳にも満たない、若い雌猫だった。家族は猫に名前をつけていなかったのでぼくもそれにならって猫と呼んだ。茶トラで、毛がつやつやとしていて、少し痩せてはいたが、愛らしい猫だった。ぼくは彼女を胸に抱いて、ソファに横になった。リビングには喪服を引っ張りだした後のハンガーや、余分に出した黒いネクタイが雑然と置いてあった。それらは一連の出来事の終わりを示していた。また終わったんだ、とぼくは思った。ぼくが人生の中盤にさしかかったころから、従兄弟や、祖母や、大叔父や、そしてあまり親しくはしていなかったたくさんの親戚が、次々と亡くなっていた。そしてぼくはその多くの場合、仕事を任せて田舎へ帰ってきて、喪服に着替えて、最後の儀式を済ませてきた。また終わったんだ、とぼくは思った。猫は去勢をしていないらしく、ぼくの胸で妙なうねり声をあげていた。ぼくは彼女の腰のあたりをさすってやった。すると曲がった尻尾を両足の間に入れて、息遣いを激しくした。時代が終わりつつある、とぼくは思った。
そういった出来事が、この間起こったが、ぼくはすぐに仕事に戻った。たまたま通夜が土曜日だったため、仕事を休まずに済んだが、その分、休みは潰れ、帰省やら線香番や気苦労やらで疲れ切った体だけが残った。

限界を超えて死ね

毎日4時間以上サービス残業して、その上、毎週、休日出勤していると、判断力が鈍り、仕事のクオリティーが、下がってしまう。
そうすると、なんとか仕事を終わらせても、不備が見つかることが多く、他の社員の前で詰められたり、フォローのための新しい仕事を、増やされたり、する。
その結果、モチベーションが、下がる。毎日深夜まで残業しても残業代が出ないし、こなした仕事が増えたところで社内の評価が高くなるわけでもないので、ただでさえ、意欲を失った状態なのを、会社の将来のためとか自分の成長のためだとか言って、ごまかしごまかし、働いているのに、その上、さらに、全社員の前でミスを詰められたり、新しい仕事をふられたりすると、ふっつりと、なにかが、きれそうになる。それは、人間としての尊厳に関わる、ぼくの体の真ん中に流れる、糸のようなもののような気がする。もう、いつ自暴自棄になっても、おかしくない。
こういった状況は、今回に限らず、これまでにも、たびたび生まれていて、その度ごとに、年に数人ほどは、人が辞めていっていたので、いよいよ、自分にも、順番が回ってきたな、と感じている。
しかし、これまで、いろんな人が、たくさん、短い期間で会社を辞めてくれて、本当に、よかった。彼らの退職は、ぼくが会社を辞めても、それは決しておかしなことではなく、むしろそれが、十分に正しい選択でありえることを、教えてくれる。もちろん、次の会社がある、という前提ではあるけれど。
ぼくの浅はかな考えでは、会社は、ぼくのサービス残業と休日出勤を減らして、体力を回復させ、モチベーションを立て直させるべきなのだと思うのだが、実際は、回す仕事を増やしてくるばかりで、ぼくは、サービス残業と休日出勤の時間が増やされ、体の疲れを癒す時間も、十分な精神的な余裕も与えられないため、仕事にミスが増え、詰められてモチベーションが下がり、肉体的にも、精神的にも、追い詰められていく、一方だ。
ぼくに残された道はふたつあり、会社を辞めるか、体力的、精神的な限界を超えて成果を出すことかなのだが、会社はもちろん、後者を期待しているし、それができる社員と見込んで、ぼくを、入社させたはずだ。
もちろん、そんな目算は、狂っている。
たとえ奴隷であっても、労働の負担があまりにも大きくなったり、不当に対価が減ったら、雇い主から、逃げ出すだろう。なぜ、会社は、そんな当然の考えにならず、仕事を増やし、報酬は変えず、激しく叱責して、どうして、社員が奮発し、もっと努力すると、考えるのだろうか。精神的にはもちろんのこと、肉体的に、過労死と認定されるラインを超えて働いていることは、タイムカードを見れば一目瞭然であり、限界を超えて、やっとのことで働いているのは、ちょっと考えてみれば、わかるはずなのに、いったい、なんなのだろう。
社員のことを、人間と思わず、機械だとか、いずれ殺すべき、家畜であるとでも、考えているのだろうか。だから、詰められるだけ仕事を詰め、タイムカードの記録も、見る必要がないのだろうか。それとも、ただ、無関心、なだけなのだろうか。それとも、ぼくにはとうてい理解のできないような理屈で、報酬を出さず、猛烈に仕事を増やし、叱責を与え続けても、ぼくが、これまで以上に、意欲を燃やし、労働に熱を入れると、信じているのだろうか。
彼らのよくいう、「成長」であるとか、「限界を超える」であるとか言う言葉が、彼らにとっては、すべてを、説明してくれるのだろうか。それらのためには、給料を出さなくても、どんなに仕事を増やしても、プライベートを破壊しても、社員が、どんどん、働いてくれると考えているのだろうか。
おそらく、そう考えてのことなのだろうと思う。
それであれば、他の会社に移るあてもないぼくに残された選択は、お金も、健康も、プライベートも、すべてを犠牲にして、限界を超えるために、働くしかない。そしてそうしていれば、遠からぬうちに、ぼくは、死ぬことになるだろう。限界を超えて、死ぬ。しかし、その「限界」は、会社が求めている「限界」には、遠く及ばないものに違いないはずだ。ぼくのようなただの人間が、会社が求めるような、「機械」のような労働者には、なれるはずも、ないからだ。